そろそろ正月の松もとれる1月5日から二泊三日で埼玉県の羽生市に宿を取りました。ここは年に数回は訪れる宿で、温泉施設が併設されたビジネスホテルとなっていて、ビジネスホテルの気軽さと温泉が楽しめるので、十年以上前から通っている宿です。恐らく通算で百回は宿泊していると思います。
連泊するのは今回が初めてで、時間に余裕がありましたので、少し前に読んだ田山花袋の『田舎教師』の舞台となった羽生の街を巡ってみました。田山花袋氏の”『田舎教師』について”という短い一文に『田舎教師』を書くこととなった経緯が残されています。田山花袋氏の妻りさの兄、太田玉茗氏(作品中は山形古城)が住職を務める羽生の建福寺(作品中は成願寺)にあった真新しい墓碑を見て、その墓碑の下に眠る小林秀三(作品中は林清三)について住職に問うたところ、小林秀三の日記が残されており、これに着想を得て『田舎教師』は書かれました。
清三青年が行田の家を出て教職に就くため羽生を訪れるところから物語は始まります。
冒頭の ”四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。” の一節の青縞とは藍染の織物のことで、現在でも武州藍染として流通していますし、藍染体験のできる施設もあります。
清三の赴任先は三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校でした。現在でも三田ヶ谷という地名は残っていて、あちこちで三田ヶ谷を冠した施設を多数見ることができます。
このあたりからは利根川の堤防超しに群馬の山が見えました。写真中央やや右側のきれいな円錐型の山は榛名山ではないかと思います。田圃はすっかり刈り取られて冬枯れの風景でした。
やがて道の分かれ目に松の木が見えてきました。ここに田舎教師の像が建っています。
田舎教師の像から道を隔てたところに弥勒小学校跡があります。弥勒小学校跡に建てられた石碑には、清三が病の床で日記に書き記した誓いの言葉の前段部分/が彫られていました。この言葉は幼馴染の友が大志を抱いて東京へ出て出世していく一方、師範の検定試験に失敗し片田舎の教職に甘んじている自分が、その母や献身的に力添えをしてくれている郵便局員の荻生を思って残した言葉です。
「絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ
絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得らるるごとき勇者たれ
運命に従ふものを勇者といふ」
このそばにはお種さん(弥勒小学校近くにあった料理屋小川屋の看板娘で、小学校の宿直室に寝泊まりする清三のもとに布団や弁当を運んでくれる。)を記念したお種さんの資料館があったようなのですが、事前の調べを怠ったため、行くことはできませんでした。どうやら円照寺というお寺の境内にあるようです。
帰り道にぶらぶらと歩いていましたら、東北自動車道の羽生パーキングがありました。外部から羽生パーキングに入ることはできますが、羽生パーキングを利用した方が、パーキングの外に出ることは歓迎されていないようです。今回は徒歩ですので、遠慮気味に羽生パーキングで一休みさせていただきました。
駆け足ではありましたが、『田舎教師』の舞台を巡ってみました。弥勒小学校の跡地から清三が下宿していた建福寺 (作品中は成願寺) までは5kmほどあり、昔の人は良く歩いたものだとおもいます。殊に肺病(しばらくの間は胃腸病と誤診されていた)を患っていた清三にはこの道のりは厳しいものだったことは想像に難くありません。また、度々小学校の宿直室に寝泊まりしていたのもうなずけます。